東海道の旅、まだまだ続きます。
前回のクレマチスの丘から、名古屋方面に下って、島田に来ました。
2011年にアニメも放映された、漫画「へうげもの」で初めて見たときに衝撃を受けた印象が強くてずっと気になっていた、小堀遠州。彼が手がけた庭園と茶室が復元されている場所が帰り道にあるのを知ったので、わくわくしながら訪ねてみました!!
三大茶人の一人、小堀遠州(政一)は、天正七年(1579)に近江(現在の滋賀県長浜市)に生まれました。父親の正次が、豊臣秀吉の弟の秀長の家老となったことで、遠州は子ども時代、秀長のお城があった大和国郡山(奈良県大和郡山市)で過ごし、幼い頃から書道、和歌、茶道などを学んでいたようです。
天正16年の遠州が10才の時、大和郡山城内で開かれる秀吉の歓迎茶会のために、秀長は千利休を呼んで茶の湯を学んでいたときがありました。遠州はそのときに初めて利休の姿を見て、茶の湯に目覚めることになったそうです。その後、15才で利休の弟子であった古田織部に師事します。秀長亡き後、徳川幕府のもとで大名となり、徳川三代将軍家光の茶道指南を務めることになり、武家茶を確立していきました。
利休から織部に続く独創的な茶の湯を受け継ぐとともに、王朝文化を融合した優美な、遠州独自の『きれいさび』を創ります。新しい安定した時代に合ったもので、「もてなし」の心を大切にするような、現在の茶道の礎となってます。
また、27歳のときに後陽成院御所の作事奉行に任じられたことで、建築家としての才能も発揮してきます。作事奉行というのは、幕府や宮廷の建築や庭園などに関わる仕事を統括する役割の人。慶長13年(1608年)に駿府城も担当し、その功績が認められて従五位下遠江守というのを授かり、『遠州』と呼ばれるようになりました。
この庭園は、後水尾上皇の院御所である仙洞御所の東庭を遠州による造園当時のまま復元した、池泉回遊式庭園というもの。京都に現存している仙洞御所の庭園は、後水尾上皇によって改造されたものらしいです。どう改造したのか比べてみるのも面白かも。今度は、京都御所にも行ってみたいです!
それから、行事奉行として関わったものは、桂離宮、二条城、名古屋城!、伏見城、大阪城、などなど、当時の代表的な建築物のほとんどじゃないかなってくらいです。
お茶室、縱目楼(しょうもくろう)にも入ってみました。
この書院は、石清水八幡宮の瀧本坊の復元。遠州と親交のあった、文化人で高僧の松花堂昭乗が住まいにしていたところ。松花堂昭乗は、四つに仕切られたお弁当箱に盛りつけられた懐石料理、松花堂弁当の由来になった人でも有名。
そして、書院から続く、なんと空中庭園ならぬ空中茶室!
もともと瀧本坊は山の中にあったので、茶室のための庭園が作れず、縁側を飛び出させたのだそう。外の景色を見ながら涼しい風にあたって、気持ち良さそう。今は庭園が見えてるけど、当時はこれが崖の上にせり出して作られていたのだから、京都を見下ろした見晴らしも素晴らしかったんだろうなって思いました。
遠州が余生を過ごした、伏見奉行屋敷の復元した鎖之間では、お菓子とお抹茶もいただけます!
お茶碗は、遠州好みの志都呂焼というもの。静岡県島田市金谷は、「遠江国質侶庄金屋郷」と呼ばれていて、その地名から、志戸呂焼(しどろやき)と名付けられたそう。志戸呂焼の特徴は、この地方で採れる「丹石」(にいし)と呼ばれる鉄分を多く含む赤い石が釉薬に使われてること。遠州七窯の一つ。
室内からの眺めはこんな感じ。
遠州は44歳のときに、伏見奉行という役職につきました。その立場から、海外の情報もたくさん入ってきて、茶道具や庭作りにも西欧文化を取り入れていたのだそう。
ワインをたしなみ、海外へ自分でデザインした茶道具を注文したり、寛永文化サロンの中心人物として、行政だけではなく一目置かれた存在のお洒落な遠州。晩年はお茶事に明け暮れ、生涯で400回、大名から町人までお客はのべ2000人と言われてる!生き様がかっこよすぎて、ますます気になってしまう。
このお茶室と庭園は、静岡県島田市にある、お茶の郷というところにあります。予約もいらないし、ふらっと立ち寄れるところなので、お茶とお菓子で休憩がてら行ってみてくださいー
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