2015年1月19日月曜日

パリのオートクチュールの歴史を移民文化との関係でとらえる意欲的な展示 Fashion Mix

先々週は日本でも報道されていたと思うので知っていると思いますが、パリで大きな事件が立て続けに起こりました。私のアパートが現場にわりと近かったのもあって、仕事へ向かうのに地下鉄に乗るのも怖かったです。
でも、統計では、怖いと感じているフランス人はたったの17パーセントしかいなく、オランド大統領が呼びかけた日曜日の表現の自由を訴えるデモ行進には、ヨーロッパの首脳も駆けつけ、パリだけで150万人、全世界各地合わせて330万人が参加したようです。翌る日の月曜日までは仕事場でもデモ行進のことでもちきりだったのですが、その後は街もすっかり平静を取り戻して、何もなかったかのようになってしまっているのが逆に恐ろしいです。
このテロがなぜフランスで起こったのか、というのは考えずにはいられませんでした。19世紀から移民を受け入れ始め、ヨーロッパの中でも移民の歴史が長い移民大国であるフランス。2005年の移民二世の暴動から、移民の選別と統合を強化する動きが高まってきていました。それに加え、フランス革命から育まれた、宗教的自由と国家の中立性を掲げる、ライシテ原理(政教分離と訳される)があります。この矛盾をはらんだ原理のもとで成立した、公共の場所でムスリムの女性たちがヴェールを被ることを禁止した法律が圧倒的多数で可決され、宗教的少数派がないがしろにされていることが問題になってました。いろんな要素が絡まっていると思いますが、かろうじて保ってきた世界のバランスにひびが入ってきてるのではないかと思いました。

このテロ事件の最終日の金曜日、犯人たちは二ヶ所で人質をとって立てこもっていました。現場の一つのスーパーマーケットはヴァンセンヌの森に近く、そこから1,5キロくらい歩いたところには、国立移民歴史館という、移民の起源、歴史を展示している博物館があります。ここは、1931年に開催された、植民地博覧会の折に建てられました。この博覧会ではなんと、アフリカの原住民族が生活環境そのまま再現して展示されたということです。それから植民地が開放された後の1960年、アジア・オセアニア美術館として開館。美術品の紹介という役割は美術品のコレクションはと一緒に、2007年に新しく建てられたケ・ブランリー美術館に移され、現在は移民の歴史に特化した博物館となりました。地下には水族館があり、家族連れがパラパラといる程度で、普段の展示ギャラリーのほうは閑古鳥が鳴いてるようなとこです。私もすっかり存在を忘れてました。

現在フランスの移民は500万人を超え、人口の約8パーセントを占めています。モロッコ、アルジェリアを始めとするアフリカ地域やインドシナ諸国などの旧植民地、ポルトガル、イタリア、スペインなどヨーロッパ諸国まで様々。ロンドンやベルリンに比べると、パリにはいかにたくさんの人種が集まっているかを感じられます。これだけたくさんの異国の人たちが携えてきたそれぞれの文化や歴史は、フランスの文化の一部となって次世代に受け継げられてきました。フランスの歴史は、移民の歴史でもあり、それはモードの世界、とりわけオートクチュール界でもしかり。フランスのオートクチュールと切っても切れない関係の移民文化と外国人からの影響。そこへ切り込んだ、今までにない意欲的な展示『Fashion Mix 』が現在この移民歴史館で行われています。

確かにパリでは一年中、何かしらのモードの展示がいたるところで行われいますが、この移民や外国人との関係を紐解いていく、というテーマはとても面白い着眼点だと思いました。


Participation-de-la-maison-Redfern-à-l'Exposition-universelle-de-Saint-Louis,-L'Art-et-la-Mode,-n°23,-3-juin-1904-©-Editions-Jalou-1904
Participation-de-la-maison-Redfern-à-l’Exposition-universelle-de-Saint-Louis,-L’Art-et-la-Mode,-n°23,-3-juin-1904-©-Editions-Jalou-1904

まずオートクチュールの仕組みを作ったと言われているのは、イギリス人のチャールズ・フレデリック・ワース(後にフランス語で、シャルル・フレデリック・ウォルト)。彼は1845年にフランスへやってきて、58年にクチュールのお店をパリに開き、モデルにドレスを着せて顧客に見せる、コレクションのショーを始めた最初の人物。68年には現在まで続いている、パリ・クチュール組合(通称サンディカ)を設立して、オートクチュールのシステムを確立。始まりからして、フランス人ではなく、イギリス人というのは驚きです。


12-Vivienne-Westwood---Robe-Fragonard-©-Roger-Viollet-HD
Vivienne-Westwood—Robe-Fragonard-©-Roger-Viollet

100年以上前のオートクチュールの祖、ウォルトの煌びやかなスタイルは、ヴィヴィアンやジョン・ガリアーノ、アレキサンダー・マックイーンに受け継がれてます。

Brevet-déposé-par-Mariano-Fortuny-y-Madrazo-(1871-1949-)-pour-un-genre-d'étoffe-plissée-ondulée.-Source--Archives-INPI
Brevet-déposé-par-Mariano-Fortuny-y-Madrazo-(1871-1949-)-pour-un-genre-d’étoffe-plissée-ondulée.-Source–Archives

それから、布地の革新が目覚しかった20世紀。パリにプリーツやベロア、プリント技術をもたらしたのは、スペイン生まれのマリアノ・フォルチュニー。ヴェネチアを拠点としていたけど、20世紀初頭に彼はフランスで発明の特許をたくさん取得し、フランスでの布地の発展に貢献しました。現在でも、イタリアの高級生地はオートクチュール界になくてはならない大きな存在感を発揮してます。


3-Schiaparelli---chapeau-chassure-©-Roger-Viollet
Schiaparelli—chapeau-chassure-©-Roger-Viollet

また、1930-40年代に一世を風靡した異端児といえば、ハイヒールの帽子で有名なエルザ・スキャパレリ。彼女は、1890年にローマで生まれ、夫についてニューヨークに渡ってから、その後パリにやってきました。シンプルなスタイルが主流となっていた時代に、彼女のシュールレアリストの芸術家の友人たち(ピカソ、マン・レイ、コクトー、そしてダリなど)の影響から、アートを取り入れたスタイルを発表してパリモードの世界を仰天させた。


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Balenciaga—ensemble-pois-©-Spassky-Fischer

また、外国人がフランスへ渡ってきたのにはいろいろな訳があって、政治的な理由であることも少なくなかったようです。その代表的なのが、クリスチャン・ディオールが師と仰ぐ、スペイン生まれのクリストバル・バレンシアガ。彼は第一次戦争後1936年に勃発した、スペイン内戦を逃れてフランスに亡命してきました。パリのホテルで最初のコレクションを1937年に発表し、瞬く間に彼の評判は知れ渡っていきました。パコ・ラバンヌも同様にしてスペインからパリへ亡命し、1950年から63年まではメゾン・ランバンで働いてました。その後1965年に自身のメゾンを開き、メタリックやプラスチックといった素材を使ったドレスでその名を馳せました。このようにして、1950年代にはますます外国人がたくさんパリへやってきて、オートクチュールが最も繁栄していくことにつながります。


5-Issey-Miyake---robe-multicolore-©-Roger-Viollet-HD
Issey-Miyake—robe-multicolore-©-Roger-Viollet

イギリス人、イタリア人、スペイン人ときて、やっぱり日本人を忘れてはいけない。この展示でも、日本人も大きく取り上げられてました。中でも、パリの服飾学校で学び、「一枚の布」というコンセプトを掲げて、76年にパリでコレクションデビューしたイッセイミヤケ。そして80年代初頭にボロルックで「黒の衝撃」として旋風を巻き起こした、川久保玲(コムデギャルソン)、ヨージヤマモト。
そして、ベルギーのアントワープ王立美術学校の卒業生たち、アントワープ6+1と呼ばれる、アン・ドゥムルメステール、ウォルター・ヴァン・ベイレンドンク、ダーク・ヴァン・セーヌ、ダーク・ビッケンバーグ、ドリス・ヴァン・ノッテン、マリナ・イーそしてマルタン・マルジェラが後に続きます。

20世紀に入ると、国や地域での文化交流がますます盛んになり、より流動的になってきます。パリコレクションで発表しているのも、フランス人は3分の1、外国人が3分の2を占めるほどになってます。パリに住まないで外国を拠点にしていても、パリコレで発表する、という場合も多い。また特徴的なのが、シャネルをカール・ラガーフェルド、ランバンをアルベール・エルバスが、ルイ・ヴィトンをマーク・ジェイコブス(2013年まで)といった具合に、パリのメゾンのトップ、アーティスティック・ディレクターを外国人が務めていること。展示にはなかったけど、そういえば歴史の長いエルメスも創設者はドイツ人のティエリー・エルメス。その子孫が現在も継いでいる家族経営の会社です。100年以上前から外国から多くのものをもたらされて発展してきたパリのモードは、言葉通り世界のクチュール文化が凝縮していると思います。それを支えてるモデリストや縫製師の技術者たちもフランス人だけではなく、世界中から集まってきているのも面白いことだと思います。大資本の手中で転がされてしまってるところもあるけど、パリのクチュール文化は、すでにフランスだけのものではなくて、世界の文化、遺産になってると思います。フランスの文化統合は、あんまりよく語られないことが多いけど、国が服飾文化や食文化を大切に保護してきたからこそ、ここまで発展してきたので、いい側面もあるような気がしました。
ああいった事件が起きた後に改めて展示を振り返ってみて思うのは、本来はモードの世界だって、人種の枠を超えて、世界中のみんなで引き継いで盛り上げて発展させて行くことができるものじゃないかなっていう希望を持たせてくれた気がしました。

   
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